教育・学問

2008年4月21日 (月)

絶対評価って 何が絶対じゃ!

Test

2回目となる文部科学省の全国学力調査が
22日、実施される。

(中略)だが、1回目の分析はまだ継続中。
私学は参加見送りが増え、意義が問われつつある。  (asahi.com)


昨年から正式に 復活した 全国実力テスト。

といっても 全学年が受けるわけではなく、
小学校は6年生だけ。中学校は3年生だけが対象だ。
しかも 国語と算数(数学)だけの試験。

私立の参加は 53.3%と低いものの
(受けることのメリットがないから当たり前)
公立校に関しては
国立と 愛知県犬山市(拒否している)以外の公立全校が受ける。


問題はいろいろあるだろう。

以前 廃止された原因ともなる、学校間の競争、
点数だけにこだわった過剰反応。。。。

だけどさぁ、無記名 試験てどうなのよ!!!

生徒たちは
「無記名だし、学校の成績には関係ないから
テキトーにやった」
と 言ってるそうだ。

そりゃそうだろな。

しかも、学校平均点とかも出さないそうだ。
都道府県の「正答率」だけ発表。

意味わかんね。


なんかさぁ、結局 点数主義にするのか、
「ゆとり教育」するのか 迷走しすぎだろ。

どうしたいねん、 文科省!

どっちが正しいとか わかんないけど、
とりあえず、ころころ変えるのやめろって 言いたい。

全国テストしたいなら、点数出せ。
名前も学校も出せ。
成績上位者も張り出せよ。

「正答率」なんて 言葉のごまかしだろが。
(ノ`△´)ノ ばかばかしい

しかも 昨年のテストについて 文科省のコメント。

(小学6年生について)

「相当数の児童が今回出題している学習内容を
おおむね理解していると考えられる」

で、算数A(主に知識を問う)は 平均正答数は82.1%
19問中 15,6問は正解だったという。

これだけきくと、なぁんだ 学力低下してるなんていうけど
そんなことないじゃん、て思うけど

1問目の問題
      28+72

。。。。。。あの。小学校2年生でその問題とけるんですけど。。。。。

ちなみに19問目
「16cmのひもを使って長方形を作ります。タテの長さが3cmのとき
ヨコの長さは何cmになりますか」

もう1回いいますが 小学校6年生の問題です。

あほかぁぁぁぁぁ。
こんな問題できて おおむね理解してるって  何がじゃ!

2006年に国立教育政策研究所の調査で

「3+2×4」を 4割の小学6年生ができなかったんだって。

それから小学校4年生が
「挙手」「改行」「子孫」などの読みが 8割できなかったんだと。 


大切なのは「みんなができる問題」を作ることでも
テストの点数で競わせるのでもなく

子どもたちの「本当の理解度」を
確認して 指導する側の参考にすることじゃないのか?

それなのに、あちこちに「配慮」(←ばかばかしい言葉)するから
骨抜きになっちまう。

やりたいことが はっきりしてないから
せっかく60億円もかけて 全国実力テストやっても 
問題自体も 中途半端なクソ問題、
実施の仕方や結果の出し方も 中途半端、
なんの役にもたちゃしない。



話が変わるけど
今の 成績表って 見たことある?

昔は 「相対評価」ていう 成績のつけ方で、
例えば中学校なら

「5」・・・・成績上位7%
「4」・・・・その次の24%
「3」・・・・真ん中の38%
「2」・・・・その次の24%
「1」・・・・下位7%

って 決まっていた。
つまり 「5」をとる子もいれば「1」をとる子もいたわけだ。
人数が 決まっていたから。

ところが、今では「絶対評価」という 成績のつけ方になって
成績上位何%が 「5」とか決まっていない。

学校が決めた基準で つけるので
ぶっちゃけ 全員「5」でも いいわけだ。

周りの子に関係なく、授業の内容を 全部理解し、
学習意欲(←今これ重視ね)があれば 全員「5」

でも 世の中そんなにうまくいかない。

絶対評価にした 結果、どうなっているかというと
実情は こうだ。

A中学校で 「5」をもらえるのが 36%の生徒。
B中学校で 「5」がもらえるのは 1.4%
さらに
C中学校では 「5」は 30%以上もらえて 「1」と「2」は
誰にもつけていない。

こんな 感じ。

で、塾の先生に言わせると

『塾のテストで75点を取る子と25点の子が同じ3で、
50点の子が2だった。』 
  ダイヤモンド

これじゃ 家庭で どうやって 子どもの学力を把握したらいいんだ?

あたしが思う「絶対評価」ってのはさ、
例えば、A中学は 優秀で 80点以上とる子が36%いる。
B中学は 同じテストで 80点以上とる子が1.4%しかいない。

だから、A中学では 「5」が 36% B中学では「5」が1.4%

これなら分かる。

でも違う。
同じ成績でも 学校の評価のつけ方によって 
「5」だったり「3」だったりするんだ。

これは おかしいだろ。
だって 高校を受験する時は 内申点(=成績表)が
重視されるのに、同じ基準で判断されてなかったら意味ないし。

日本の教育は「絶対評価」の使い方を
絶対間違えている。

評価がブレないから 「絶対」 であるべきなのに
「授業態度」とか「学習意欲」なんて 点数や上下のつけにくいものを
重視した結果、
客観性を 失ってしまった。

客観性のない 成績表なんて 無意味だ。

たしかに学習意欲も大切だ。

だからって学習意欲が 「あるように見せかける」技術だけに
長けた子どもができたからって 何の意味があるんだろうか。

成績なんて そもそも相対的なものだ。
そして客観的なものだと思う。

数字ではっきりしていたから、教師に嫌われようと、
ゴマすろうと 「5」は 「5」だったのだ。

それが 今では はっきりした価値基準が
どんどん見えなくなっている。
はっきりしてるのは 先生に気に入られれば、
成績が上がる、ということだけだ。


そんなに 学習意欲を評価に加えたいなら、
そういう項目作れ。

国語・・・・「5」 ただし 学習意欲「1」
数学・・・・「5」 ただし 学習意欲「1」
体育・・・・「2」 ただし 学習意欲「5」

これで いいやん。

つーか これにしろ(笑)
学習意欲を重視したい高校は 学習意欲で内申見ろよ。
結果が 重視なら 成績の評価を見ればいい。

そもそも 学習意欲と結果は別のものだ。
言い換えると 学習意欲はあくまでも「過程」だ。
そして 成績っつーのは「結果」のことだ。

例えば、会社で営業成績はいいけど いつもサボってるから給料down
営業成績まったくダメだけど いつも会社に朝早く出社するから
給料upとか、してくれるか?
そんな会社 間違いなく つぶれる。


学習意欲を重視することに 反対はないけど
それを成績の結果と混ぜて 1つにするから おかしくなる。

「結果」と「過程」は 違うものなのだから、
それを混同するな。

けっきょく「キレイ事」が多すぎるんだよ。

だって その結果として
「努力すれば 報われる」 世の中になったか?

なってないだろ。

金があって 私立に行かせてもらえる子どもたちは
週休2日制なんて とっくにやめてるし、
「総合学習」なんて ばかばかしい中途半端な授業は
廃止してる。

文科省のやってることは 「キレイ事」だらけだ。

100歩譲って キレイ事でも 貫くならいい。

「ゆとり教育」の すばらしい着地点を模索する!
というならいいけど
結局 「ゆとり教育」辞めますって。。。。。

国民をバカにするのもいい加減にしろ。

あんたらの 実験台にされた世代は どないすんだ。


もう1回 日本の教育をどうしたいのか とことん 考えろよ。 

それも考えないで これから先の10年の
指導要領なんて決めるな! アホ




てことで 今日は
教育の現場を 10年間 傍から見続けたうっちの 怒りの巻でした。
( ̄^ ̄)フン!!





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2007年5月30日 (水)

価値基準

ニュースを見ると 本当に残忍な事件が多い。
親が子供を殺しただとか、子供が親を殺しただとか、
弟妹を殺しただとか、夫をばらばらにしただとか、今や ちょっとやそっとでは
驚きゃしない。

だが、 じゃあ「今時の子どもは。。。。」と 年寄りぶったことを
言いたいのとかというと ちょと違う。

なんか 最近の子どもは キレルと怖い、というから、
どんだけヒドイかと思う。

だけど 実際にあたしが 目にする子どもたちは とても礼儀正しい。
以前 母校の小学校を訪ねたときも、中学校を訪ねたときも、
同じことを言われた。

「お前たちは 手がかかったけど、おもしろかった」

当時は 嫌味かよ、と思ってたけど、最近 あの時の先生の言葉の意味が
分かるような気がする。

子どもたちは 礼儀正しく、失礼だ。
たしなめると 素直にしたがう。

たとえば、タメ語を使ったり、少し失礼な言葉を使ったり。。。
それを少しずつ 上のせしていく。
で、 これはあんまりにヒドイな、と思ったところでたしなめると、
そこに限界線を引く。

つまり、どこまでこの人は許してくれるのか、というのを試されてる気がするのだ。

これは 小学生でも同じ。
女の子だと 幼稚園生でもやる。

そもそも、子どもとは 他によって生かされているわけで、
本能的に周りの人の顔色を読むことが 大人よりも得意だ。

それで、最近の子どもたちについて思うのは、その価値基準が
「損得」であることが非常に多いような気がする。

何かを決めるときに、「損をするか、得をするか」なのだ。

たとえば、「学校の先生にむやみに逆らっても 得はしない」
という理由で 逆らわない子どもたち。
「スポーツ推薦は得だけど、レギュラーになれないなら 部活はやめる」
という 子どもたち。
「かっこつけて タバコ吸っても退学になったら 損だから 吸わない」
とかいう子どもたち。

なーんか 違う。

別に 盗んだバイクで走り出せとは 言わないが、
基準はそこなのか?!て 思うのだ。

もちろん こうなったのは子どもが悪いわけじゃなくて、
大人が悪いのだ。

今の社会では なんでも 「損か?得か?」てのが 第一に考えられる。

企業では 利益が優先だから いつでも「損得」が計算される。
もちろん それが悪いなんていったら 資本主義はなりたたないんだけど、
生活の中では もっとそれ以前のものがあるだろう?

大人は つい子どもに 「損得」を教えちゃったりしてないだろうか?

「物を盗んだら おまわりさんにつかまっちゃうよ」
⇒ つかまらなきゃ 盗んでもいいのか?

「そんなに騒いだら 怖いおじさんに怒られちゃうよ」
⇒ 『怒られるから』 騒いじゃ いけないのか?

「そんなことしたら 学校の先生に目をつけられちゃうよ」
⇒ 先生に気に入られればいいのか?

そうじゃなくたって 子どもなんて 周囲の顔色を見て状況判断するんだから。

自分が怒られたり、罰せられたりして 「損をする」てのは体験的に学ぶものであって
はじめから 計算で 行われるものではないはずだ。

だって 損得勘定って 案外怖い。

犯罪だって 「17歳までに犯罪を犯せば、罪は軽いから今のうちにやっとこう」て、
おいおい!

得が上回れば 何だってできちゃうのか?

万引きして 退学になったんじゃ 割りに合わないけど、
邪魔なヤツを殺して、数年で社会復帰できるなら、得だったりするから恐ろしい。

悪いからダメというのと、損するからダメというのは
まったく違うものだと思う。

損をするからダメというほうが、正直 伝えやすい。
「悪い」という 観念は 抽象的だから 教えにくいのだ。

でも その善悪の 絶対的な基準こそ 子どものうちに学ばなければ
大人になってからは 学べないものじゃないんだろうか。

大人はそれを教えることから 逃げてはいけない。
理不尽だろうが、自分だけ損してる気分になろうが 「悪いことは悪い」のだ。

それが 分らない世の中だから、
大人になっても 善悪の基準が定まらず、精神的なもの
例えば、インチキ宗教だとか スピリチュアルだとかに 
迷い込んでいく人が多いんじゃないかと
うっちは 思ったりする。

今 日本に欠けているものは 「善悪の価値基準」てことで、
今日のお話はおしまい。










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2007年4月26日 (木)

小学校の実情

4月24日に 全国の小学6年、中学3年を対象に 
全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が一斉に行われた。


全国の学力テストは43年ぶりだそうだ。

このテストについて テレビのニュースでは いろいろ問題点を取り上げていた。

いわく、以前 この「全国学力テスト」で学校のレベルが比較されたので、
成績の悪い子を受けさせなかったとか、

いわく、先生が子どもの答案用紙を書き換えて、
少しでも点数を上げようとしていた、とかだ。

ようするに、また学力競争社会に逆戻りするのではないか、という不安だ。


でもあたしから言わせれば、「ゆとり教育」なんて とっくに崩壊している。
小学校の現場では、
昔は 教室の1~2割りの子が 学習についていくのを困難と感じる
(落ちこぼれという言葉が禁句とした言い回し)だったが、
今では 教室の中で 3割の子だけが 学習についていけている、というのが現状だ。

授業の日数は 足りない。
足りない分は宿題にまわすしかない。
とはいっても、宿題をしてこなくても 怒られない。
(宿題を強制すると怒る 保護者がいるから)

漢字の学習は 時間を十分に割けないので、家で「自主的に」学習する。
5年生になると 宿題すら「自習」だ。

「自主的」て言葉はいいけど 本人まかせ。

塾に行く子が多いので、それにあわせたテンポで授業がすすみ、
塾の宿題があるから 学校の宿題ができない、という子は 野放しだ。

小学1年生から 授業に遅れ始め、1年生の夏休みから 補習を行う学校もある。

「習熟度別」と呼ばれる 算数の授業は
クラスの子たちを 3つの進度に分けて 行われる。

しかし その進度を先生が分けるのは差別にあたるので、
あくまでも 本人が(親と相談して) 自主的に決める。

わくわくコースとか どんどんコースとか のんびりコース などと 
名前は変えられているが、
普通の子、進んでいる子、遅れている子の区別であることは
親も子ども 分かっている。

見栄からか 過信からか、無理して上のコースに入れる親もいる。

授業中は 子どもたちは落ち着きがなく、
中には、1年生から 学級崩壊。
子どもたちは 授業中に好きに歩き回ったり、床に直接 座っている。

先生は 必死で授業を進めようとするが、高学年になると 押さえもきかない。
授業は たびたび 中断される。

かといって 廊下に立たせたり、腕をつかんで連れ戻すことも、正座させることも
体罰となる。

これの どこに ゆとりがあるの??

仕事上 いろんな県のいろんな小学校の実情を見てきた。
だから 全部の学校がそうじゃないことは分かってる。

かといって、テレビのワイドショーを作り話のつもりで見てるのは、
現状を知らなすぎる。


差別しないとか ランキングをつけない、ということが
なにやら 「結果が平等」を求めてるような おかしな風潮もみられる。
子どもの権利が一人歩きだ。

「教育」としての機能が働いていないから、
目上の人だとか 年配とかに敬意も払わず、
何かと権利ばかり主張する子どもが作り出されていく。

今回 急に復活した 全国学力テストを見ると、
文科省がこの先 どこをめざしているのか ますます分からない。

あたしが思うに、平等とか 自主性の意味が違うと思う。

平等は 「結果、平等」ということではない。
どんな学生生活を送ろうと、社会に出れば競争することから
逃れられるわけではない。

今の親は 自分の子どもが傷つくのを極端に恐れている。
でも、傷つくことが 勉強だとは思わないのだろうか。

挫折を乗り越えることが 人生を豊かにすると思わないだろうか。

算数ができるか、体育ができるかの問題じゃない。
自分のできないことにぶちあたった時、どうするのか。
戦うのか、逃げるのか、努力をするのか、別の答えを探すのか。。。
そういうことが 学習だと思う。

そういう意味では 「機会」は平等であるべきだが、
結果が 平等である必要はない。

日本の教育は、どうもそこが違う気がする。

本当にゆとりがあって 豊かな教育を目指すなら、
たとえば 算数が得意な子には とことん算数をやらせればいい。

学力がすすんでいるなら 飛び級をさせて、
どんどん先に進ませればいいと思う。
芸術に優れているなら、芸術の授業を人より多く受ければいい。

自分がやりたいことや 優れていることがあるのなら、
平等でなくても 飛び出させてあげればいいと思う。

選択肢が 広がり、 より興味のあることに時間をかけることができるのが
ゆとりのある教育じゃないかと思う。

そういう教育のほうが 機会平等で 自主性のある教育だと思うのだが、
まちがってる?

でも 文科省の ゛管理"や"競争"や"ゆとり"や"自主性"という
キーワードの捕らえ方をみていると、
まだまだ 理想の教育には 程遠いと感じられる。


結局 国にとって 教育とは 政治の延長線上で語られてるだけだ。


伊吹大臣の 数々の 失言(ホンネ?)をいちいち書いてたらキリがないから
書かないけど、
とてもじゃないけど 未来が明るいとは思えないなぁ。。。。

その時その時の制度で振り回される子どもたちが
かわいそうでならない。





       

       関係ないけど これ最低!
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2007年4月11日 (水)

プチ・日本語講座

気になることといえば。

この前 アナウンサーが 
「歯に衣を着せない 発言ですね」と言った。

えええ??? Σ( ̄ロ ̄|||)  と 思った。

彼は 「歯に衣(ころも)を着せない 発言」と 言ったのだ。

「ころも」っすか?

こういうのね、すごく気になるタチなんですよ。
アナウンサーが 歯に 衣(ころも)なんて 着せないでほしい。

常識ですが、正しくは 「歯に衣(きぬ)着せぬ」で 正解。
衣(ころも)着せたら 天ぷらか!! て 話だ。



もうひとつ よくあるのが、「的をえた話」

勝手に 的を得てろ!  と 激しくツッコミたい。

的は 「射る」のであって 「得る」訳ではない。
的を矢で射るように スパッと 焦点を絞った話ができれば
「的を射る」話なんだけど 「的を得る」のじゃ 的ドロボーだ。

まぁ 言葉ってのは 日々変わっていくから みんなが間違えれば
それはそれで通用するんだろうけどね。

その代表として 「全然 大丈夫」て 言葉がある。
ニホンゴとしておかしい!!なんて 言わなくなったのは、あまりにみんなが使うからか?


「全然」は 否定の言葉につく副詞だから 
「全然ダメ」とか「全然大丈夫じゃない」という使い方が正しいとされる。
「大丈夫」とか 「平気」とか 言うのであれば「全く」を使う。

だがしかし!!

さらにさらに 深く掘り下げてみよう。
歴史をさかのぼると 「全然」という言葉は否定の意味に使う
というルールは
かなり最近 決められたことなのだ。

その証拠に 夏目漱石は小説の中で、「全然平気」という言葉を普通に使っている。
明治時代は 「全然」は否定の意味に限った言葉ではなかったのだ。

となると 「全然大丈夫」というのは 正しいのか正しくないのか。。。。。

こうなってくると 何をもって正しいとするのか わからなくなってくる。

言葉は所詮 道具の一つだから、伝わればいいという気もするが、
その反面 豊かな日本語の表現が 減っていくのは嘆かわしい気もする。

少なくとも、うっちの中学時代のスズキ校長先生のように、
「歯に濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せない」なんてみんなの前で言っちゃうと
中学生にだって 末代までバカにされちゃうわけで、
正しい日本語に気をつけるにこしたことはない。 






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